左・羽指踊の音曲を今日に伝える生月・壱部浦の勇魚捕唄[島の館提供]
では記録にありません。それは抹香鯨があまり西海にいなかったからかもしれません。しかし国内のどこでも一番の獲物とされていたのは、背中の円い背美鯨です。
谷川…最近、鯨は姿を現しますか。
中園…時々来るらしいです。小川島での聞き取りの記録では、背美鯨が捕れだというのは大正時代頃までです。座頭鯨も戦後にはまったく姿を見せなくなりました。長須鯨や白長須鯨を対象としたキャッチャーボートの捕鯨は、昭和三十年から四十年代にかけて、五島列島の南端で行われていました。それ以後大型鯨類を捕獲することはありませんでした。国際的な規制にもよりますが、個体数が相当減ったことが問題です。
谷川…百四十年で二万頭ですから一年当たり百頭以上の計算になります。これは大変な富ですが、その蓄積の痕跡がないことが不思議ですね。
中園…新田開発に投資したり、酒屋の株を買ったりした。また深澤家の例ですが、本陣を構えたり武士になった例もあります、ステータスを買ったのですね。生月の益冨家では一族の山縣家が平戸藩士になったり新田開発をやっている。そこが今、佐世保の中心街になっている山縣町です。
また鯨組には他の利権が与えられることもあったようです。鮪(しび)網または大敷網ともいわれていますが、益富家は平戸藩から五カ所の網代の権利を永代に持っていいといわれており、鮪を加工して油に加工していた。鮪漁のほうが鯨漁よりも経営的に安定しており、鯨組の不安定な経営を補助していたわけです。
◎残された鯨絵巻◎
中園…私が関心があるのは、鯨漁の絵巻を残した意図です。
谷川…合戦のように勇壮ですからね。
中園…江戸時代の終わりに描かれた『小川島鯨鯢合戦』には、合戦という名がついています。当時の騒々しい世相を反映しているのかもしれません。鯨漁を見た人々は、血湧き肉踊るものだという感想をたくさん残しています。合戦と結びつけている表現もあります。現在、ホエールウオッチングがブームになっていますが、当時はホエーリングウオッチングだったんです。捕獲する場面を見ようとする興味です。その後、鯨組の組主自体が絵巻物を制作して残していこうとする傾向も出てきた。呼子の『鯨魚覧笑録』という絵巻や生月の『勇魚取絵詞』などがそうです。鯨組主という従事者が捕鯨という産業を総合的、体系的に見せようとした。その中で捕鯨という殺生が文化であることを訴えようとしたのではないでしょうか。
谷川…合戦絵巻には、武将の個人の名前が書かれ、人物も個性的に描かれています。鯨漁絵巻ではいかがですか。
中園…『小川島鯨鯢合戦』の文中には少し名前は出てきます。最近、確認したシーボルトコレクションの中の捕鯨絵巻には小川島組の各船の刃刺の名前が出てきています、し
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